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2012/09/30 世論と名目から考える日本の歴史 (中編) 
2012/08/16 世論と名目から考える日本の歴史 (前編)
2012/05/30 三国志−諸葛亮と馬謖 〜街亭の戦いと蜀の実態〜
2012/02/29 室町末期−政教分離の歴史と織田信長
2011/12/31 三国志−影の総帥
2011/11/29 関ヶ原の戦い−増田長盛と石田三成

2012/08/16(戸田)
世論と名目から考える日本の歴史 (中編) ※この記事は書きかけです。記述が変更される可能性があります

<戦乱の終息と徳川幕藩体制>

豊臣秀吉の死後、前田利家と徳川家康が朝鮮出兵の後始末をつける形で和解し、諸大名を撤退させました。戦費ばかりがかさみ、死傷者も多く出て、利益が全く上がらず貧窮に苦しんだ大名らは、この後味の悪い戦いの責任の所在を巡って内部分裂を起こし、主導は豊臣か徳川かを巡って関ヶ原の戦いが起こりました。

関ヶ原の勝敗を大きく分けた要因に、やはり両軍の名目に差がありすぎた事が挙げられます。東軍徳川家には今後の行政方針を考慮した名目に沿ってある程度団結できていたのに対し、西軍の大名たちは名目を自覚していた者が一部しかおらず、大半は利己目的の口実だけで集まり、団結に欠けていたそこに勝負が決まっていた感がありました。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家は、西軍に加担した大名、つまり徳川を少しでも否定した大名の領地は容赦なく全て没収し、また豊臣家の遠隔領地まで味方した大名に配分してしまいます。これは関ヶ原で勝利した徳川家が世論による全国的な政治権力を獲得した事を物語っています。豊臣家は徳川家に完全に主導を握られてしまいました。

関ヶ原の戦いで敗れ、領地を全て没収され路頭に迷う牢人たちは、その報復戦を希望する形で大坂に集結し、戦う事となった「大坂冬の陣・夏の陣」は、これは徳川家にとっても天下総仕上げの最後の戦いでした。険悪となった豊臣家と徳川家の関係を口実に、徳川家を恨んでいた各地の没落武家たちは、敗者復活戦を望んで大坂に結集しますが、ここでもやはり同じような理由で勝敗が決していた所があります。

大坂方(豊臣)の首脳陣はかつての力関係を根拠に徳川家を否定するばかりで、牢人衆も徳川に奪われた領地を取り戻したい以外に、戦いの名目らしい名目などない所が問題だったと言えます。仮に戦争で徳川家に大打撃を与える事に成功したとして、その後、誰がどういった名目で徳川を否定し、国政をまとめていくのか。徳川を上回る明確な名目があるようには見えませんでした。

それと比べ徳川家は、この頃から固まりだしていた貿易制度、改易制度、家格制度、参勤交代制度、国替え制度、目付制度など、のちの幕藩体制から見ても解るように、新政府として、室町体制や戦国期で見た武家政治の根本的な課題を名目とした国政方針を明確にしていました。これは大坂の戦いがはじまる前から既に朝廷もこの徳川家の名目を認めていた所です。それに比べて大坂方は、世間が納得できるような名目にはいまひとつ足りない所があり、それはつまり、古来通りの荒れ放題になる可能性もある戦国時代のままでも構わないといっているようなものです。例え彼らにはそういうつもりはなかったとしても戦う上での大した名目がない以上はそういっているのも同然です。

豊臣に集まる残党を討伐するきっかけが欲しかった家康は、豊臣家の建立した方広寺の鐘銘の事で大坂方にイチャモンをつけ挑発、そして徳川側からの外交を拒絶したという形をとって宣戦布告、会戦(大坂冬の陣)を誘発しました。しかしこの戦いは、烏合の衆かと思われた豊臣方が大坂城に篭城して頑強に抵抗し、すぐには決着が着かなかったためひとまず講和します。

そして家康の謀臣たちによって、今度は大坂城の堀の埋め立ての条約の事で豊臣方へ挑発的ないいがかりをつけ、前回と同じく徳川側からの外交を豊臣が拒絶したという形をとった上で野外戦に誘発、もうひと合戦する事になりました。冬の陣も夏の陣も挑発的だったのは確かに徳川方でしたが、それが一方的な挑発やいいがかりであったとしても名目的な対処がとれていない豊臣方は、それだけ劣勢であった事が伺えます。

ところで関ヶ原の戦い直後の豊臣家の世間の支持力は、実際の所はどうだったのかというと、主導権は徳川家に握られてしまったものの豊臣家の威光は依然として近畿では寺社や民間からは豊臣人気が高く、決してあなどれないものがありました。しかし大坂方は大した名目などない中で、新たな世論を作り、世論を味方につけて戦うという基本がほとんどされないまま、不利な戦況を作っていき自滅した戦いと言えなくもありません。

その責任や敗因を何かと追求されがちな「淀の方」が大坂方で表立っていた事態がまさに象徴的で、大坂の首脳陣がいかに名目や人望が不足していたかが伺えます。淀の方の良い悪いの話はともかく、名目で既に勝負がついていた徳川方が勝利した事はむしろ自然の事でした。徳川家康は最後の戦いとなった夏の陣で、毛利勝永、真田信繁、後藤基次などから多大な損害と脅威を受けたものの、結果的に大坂の首脳陣が大した名目をもっていない連中で助かったとでも思っていたかも知れません。

ところで徳川家康は、この最後の戦いでは70を超える高齢の身であり、すでに幕府政権の主導を握り、朝廷からも認められていたにも関わらず豊臣家を屈服または滅亡させる事にかなりこだわっていた所がありました。これにはなんだか尾ひれのついた陰謀説や裏事情説が色々出ていますが、当時の社会情勢から考えるとこの豊臣対策はむしろ自然の成り行きだったと思われます。

というのも、大坂に集まっていた不満分子は数万と居座り(多く見積もれば10万人とも)いくら連中が世間や朝廷から正式に認められていない無法集団だったとしても、そんなに大勢の徳川の否定派がいるという事実は、いたずらに放っておけばいずれは世論に影響を及ぼしかねず、討伐しないわけにいかなかったのが実情だったと思われます。

そう考えるとこの戦いは、あるいは大坂方の名目が整う前に徳川家康が早急に対処した戦いだったのかも知れません。これは織田信長がかつてこだわっていた「しかるべき主従(支配)関係の徹底」の意向が継承されていると言え、ここまでは豊臣秀吉もできていました。しかし徳川家康はさらに、親類や譜代を中心とした家格の整備によって権力基盤を固める努力もできており、この両立は織田信長、豊臣秀吉にはできていなかった事でもありました。

関ヶ原の戦いと大坂の戦いは、大規模だったという観点で先の応仁の乱と比較すると、その性質にかなりの違いが見受けられます。応仁の乱ではその大将両者ともに大した名目もなく争ったゆえに、戦いの政治的な目的や区切りなどもなく11年も長引き、それを負担をし続けていた民間を疲弊させ苦しめる結果となりました。それと比べ関ヶ原の戦いでは政治的な理由で全国の諸大名を強制参加させ、現地集結した戦闘ではたった1日(数時間)であっけなく決着がついてしまい、その前哨戦と西軍敗走後の戦いも含めても数ヶ月で終結しています。

大坂の戦いも冬の陣と夏の陣とそれぞれ2〜3ヶ月ほどの戦いであり、期間としてもおよそ1年以内には決着が付いています。これは戦いを長引かせても良い事は何も無い事を世論も徳川方も認識していた事を示し、また名目があったからこそ可能だった事とも言えます。

ともあれ、戦国思想を完全に打ち消すための戦いというべき大坂夏の陣とは「都合が悪くなった者同士で徒党を組み、難癖をつけごねて武力で権力者を困らせ、要求を飲ませれば良い」という戦国時代では通用していた軽率な考えが徳川家の統制下ではもはや通用しなくなった事、もうそんな時代は終わった事を改めて証明した戦いです。以後、日本史上最大の民間一揆・島原の乱の大騒動を乗り切った徳川江戸幕府は、いよいよ太平の世へ向かう事になります。


<江戸時代>

これまでの武家社会といえば、利害関係で周囲を巻き込んだ武力解決が前提でした。その課題に挑んだ江戸幕府は法治解決を前提し、その名目の下で取り締まりの力を入れています。三代家忠、四代家綱の代になると大規模な武力騒動も無くなり、ようやく天下泰平の安定期の時代を迎えますが、それまでに江戸幕府は様々な法度(法律)が施行されていきました。

まず、藩主(大名領主)の後継者争いによる、血縁事情で諸氏を巻き込む大規模闘争に発展しないよう、お家騒動は大罪とし、その嫌疑をかけられた大名は容赦なく改易(取り潰し)を強行し、非常に厳しい姿勢で臨みました。また大名らが力を持ちすぎて、地方で反政府派を団結できなくするために、あれこれ理由をつけて頻繁に国替え(転封・領地替えの引越し)をさせたり、幕府との主従関係の立場を教化・監視するための行事(参勤交代制)を強制し、それらの出費を負担させる事で財力を削ぎ、反逆を未然に防ぐ工夫をしました。

それらの出費は大変なものであり、大名らはその制度によって非常に苦労したものの、大名が国許と江戸を往来する機会が増えたため街道が整備され、宿場や茶店(飲食店)が並ぶようになり、民間でも国々を往来しやすくし、道の駅が繁栄するという利点もありました。

また教義上でも徳川家康を祭る東照宮の分社が全国に建立され、士農工商の根拠の一助を担っていました。武力もあまり必要ではなくなり、その後の武家社会は朱子学による忠義の奨励や、また文武両道の奨励といいつつ行政能力が重視されていくようになります。世の中では次第に戦国期を美化した講談が流行り、武力の世界とはその中での事となっていきました。

※余談ですが「忠義」の美徳が流行したのは江戸期であり、この時代に作られた「戦国の講談」は、当時の講談師の感覚で大衆受けを狙って多く作られていきました。そのため江戸期に作成された戦国期に関する書物は、幕臣、藩士らによって書かれたものならともかく、町人によって書かれた講談本は例え新発見である貴重な記述が見つかったとしても、話を盛り上げるために創作を注入している可能性が大きく、従ってそれをそのまま鵜呑みにはできないというのが近年の史学研究の認識となっています。

徳川政権の財政は、天領(幕府直轄地の事。全国の1/5の領地)による税収、全国的な鉱山の独占、貿易権の独占によって成り立っていました。関ヶ原の戦いは農業主義と商業主義の戦いとも言われており、勝利した徳川家は武士の俸禄(給料)は主に石高制による米の支給によって成立されていました。戦火に悩まされる事なく各地で新田開発が乱発したこの時代は、豊臣秀吉が行った太閤検地の頃の石高測定と比較し、全国の総石高(米の取れ高)が倍以上に伸び、人口も倍増した時代でした。

しかし新田開発はやればいいという簡単なものではなく、土壌や河川の事情による失敗も多く、また豪商が権力者と結託し、その利権を独占する事が問題となり、出資元や責任者が誰か(村請か町請か)を巡って騒動も起こりがちでした。そうした過酷な負担や失敗を繰り返し、苦しみながら農地が開拓されていき、庶民も徐々に豊かとなっていきました。

しかし当時はまだまだ天災による対処が困難の中、農家では不作時の年であっても減税が認められる事はほとんどなく、厳しい年貢の取立てに苦しみました。また逆に、予想外の豊作で過剰に米が取れすぎると米価が下がり、武士も俸禄米(米が給料)を換金して生活をしていたため、武士も惣村も生活苦となる問題もありました。重農主義を根幹としていた幕府は商業に対する偏見もあり、経済の流れに逆らうように無理に米価を維持する事に躍起になり、強引な政策が経済回復を難しくしていました。

そうした農業の問題を抱えつつ、江戸時代中期の元禄を迎えると都市では商業の偏見を押しのける形で繁栄し、バブル経済とも言うべき最も華やかな時代に入り、食文化や娯楽、文芸などが乱れ栄えました。不安定だった農家では離農が目立ち始め、物流や手工業などの仕事を求めて都市や港に人々が流入し、特に江戸では人口がごったがえしているような状態でした。

しかし元禄バブルも数年で弾けると未曾有の経済恐慌が起こり、都市の物価や貨幣価値が高騰し、米価が下がり続けたため、特に都市で生活していた武士たちは貧窮する事になりました。彼らは収入を増やす(元に戻す)ために米の増産に取り組むものの、過酷な新田開発事業は農民から反発を招き、増産と米価の調整は簡単ではありませんでした。

各藩も度々経済危機に陥り、藩政の建て直しに苦労していました。しかし中には上杉鷹山のように藩政を見事に立て直した努力家もいました。この時代、不景気が続くと必然的に倹約が奨励されがちで、倹約ばかりに力を入れすぎて締め付けるように消費を抑えようとすると、かえって貨幣高騰連鎖(デフレ)に歯止めがかからなくなり、ますます不景気に陥りがちでした。

上杉鷹山の場合は単純に倹約に厳しいだけでなく、飢饉に備えた食料体制の工夫や、学問の振興、特産品生産の品質徹底による流通販売戦略の改善、さらには武士でも内職をさせるなど様々な、並ならぬ努力によっての立て直しでした。上杉鷹山のように財政を立て直せた藩の方がむしろ一部で、大抵の藩の台所は火の車が常でした。

そんな経済危機の中で全国的な財政の立て直しを図るべく、有望であった田沼意次が幕閣に選出されました。田沼意次は商業に理解のある人物で、農業対策だけでなく商業の税法を工夫したり、金貨と銀貨の新たな基準で統一する案や、貨幣を増産するなど画期的な案がいくつか出され、貨幣そのものを工夫する試みもされました。

また彼は、幕政の根本的な問題に踏み出した事で辣腕家の印象が顕著となった人物でもあります。当時の幕政は何事も費用が無くなり次第手当てしていたという曖昧なやり方が普通で、そのような方法は浪費の元とし、予算をあらかじめ設定し、その決められた中で対処していく予算制度を作りました。しかし経済対策のためには多少の風紀の乱れもやむなしという所や、また予算制度を理由に、幕府中枢でかなりの権力を誇っていた大奥の予算を大幅に削減してしまうなど、そうした日頃の専横も目立ち、政敵を多く作る要因となりました。

田沼意次によってようやく経済が好転したかに思われた矢先に突如、浅間山が大噴火を起こし、これが日本史上最大の飢饉「天明の大飢饉」の発端となりました。これは現代における「円高に歯止めがかからず、バタバタと会社が倒産して混乱している所へ2011.03.11の原発事故東日本大震災・原発事故が重なった」状態と似ています。

この大噴火で大量に吹き上げられた火山灰が空を覆った影響で天候を大いに狂わせる事になり、各地で農家の大凶作を招き、日本中を大混乱に陥れました。当然の事としてこのような大惨事を田沼意次は即座に対処しきれるはずもなく、また日頃から政敵が多かった事でこの事態の収拾における責任を取らさせる形で失脚し(松平定信が後任)、彼にとってあまりにもタイミングが悪すぎる天災といえます。田沼意次は何事も思い切りの良い人物で、彼の商業政策は日本を近代化に向けさせるきっかけとなったかも知れない程でしたが、商業に対する偏見の多かった幕僚たちがそれを許容しきれなかった所がありました。

天明の大飢饉は現代の原発事故東日本大震災と比較すると、比べ物にならない死者(多くは餓死者)を出しているため、天明の大飢饉の方がよほど惨劇だったのではないかと思う人もいるかも知れません。しかし多数の餓死者を出した実際の原因は、凶作だけが原因ではありませんでした。

大噴火のあったこの年の全国的な凶作地を見てみると、火山灰の影響を受けずに通年通りに米が取れていた地方と、凶作または大凶作となった地方とで半々ほどであり、実際の所は米が充実している地が、不足している地に回米されればほぼ餓死者は出ない算定がされていました。緊急指令という事で幕府は各藩に回米指令を通達したものの、ところが藩はこの指令を全く聞こうとしませんでした。

各地の商人は、それぞれ藩主と結託して米を倉から出そうとせず、また米を買い占めたりして米価の吊り上げを計りました。幕府の命令を無視した藩同士の米をめぐる駆け引きも手伝って、異様に高騰した米価に全く手が出なかった藩ではおびただしい数の餓死者を出す事になりました。これは当時の藩主や商人が、食糧難につけこんだ悪徳な強欲連中だったのかといえば、決してそれだけの単純な理由だけではなく、もっと深刻な所に原因がありました。

先述したように、どの藩の財政も大抵は火の車が常であり、ただでさえ経済回復が難しい所へ、貿易権や鉱山権を幕府に独占されたまま、参勤交代制度や国替え制度は緩められず負担し続けされられていた事でどの藩も苦しんでいました。これも先述したように、こうした政策は諸大名の力を削いで未然に戦乱を防止する機能があった反面、諸藩たちへの財政や交流の阻害は「自分の所が厳しいのに、他藩の食料危機など所詮はよそ事」という風潮を作る原因にしていました。

そうした世論から考えれば、ここぞとばかりに米価の値上がりを狙って財政の補填を計ろうとする事は当然の成り行きだったと考えられます。幕府は普段から各藩に財政難に追い込み、また他藩同士の交流を阻害しておきながら、都合が悪くなった困った時だけ「助け合え」といっても通用する訳がありません。幕府の回米指令がうまくいかないのも当然でした。

しかし一方で、白河藩主だった松平定信はこの緊急事態の中、日頃の財政の立て直しの努力はもちろんの事、幕府の命令を公然と無視して米をめぐる駆け引きを迅速に行い、そのおかけで白河藩では大凶作であったにも関わらず1人の餓死者も出さなかったという異例の実績をあげ多大な評価を受けた人物でした。

江戸時代とは、戦乱を無くし、これまで以上に行政に向き合った事で人口が増加し、産業と物流が大きく発達して下層の生活水準も戦国期と比較するとかなり上がっていった時代でした。庶民にも少し余裕ができるようになって娯楽や文芸、衣服などの文化も栄えるようになった元禄バブルは、当時の高度成長期を象徴していると言えます。しかし時代ごとに矛盾を象徴する事件も起こっていき、中でも天明の飢饉事件は、幕府の名目と世論が次第にかみ合わなくなってきた、矛盾が大きく露呈してきた事件だったと言えます。

江戸後期に入ると、禁止されていた海外貿易も次第に破る者も現れ、加賀藩の豪商・銭屋五兵衛などは藩主と結託して外国と密貿易をはじめる有様でした。相変わらず緩められる事のない幕藩制度の負担によっていつでも財政が逼迫していた藩は、密貿易を行いそれを貴重な財源としたいと思うのは当然の事であり、また外国側としても、何かと制限の多い幕府と取引するよりも藩と自由に取引したがっていた外国側の都合も結びついての当然の成り行きと言えます。江戸末期の黒船来航は、まさにそうした事情も含んだ事件でもありました。

黒船来航の事件は当時、イギリスやオランダなどとの先進国らのアジア市場競争に勝つために日本を組み込もうとしていたアメリカが、世界情勢に目を向けずに国内の事情だけであれこれと制限していた幕府に対し、貿易や来航の自由化を強気で要求してきた事で物議になった事件でした。

こうした中、次々と起こる事件と世界情勢に満足に対処できない徳川政権の迷走ぶり(名目不足)は、時に「外国には弱腰で、大した国策も打ち立てられないくせに民間や下級武士には偉そうに威張り散らす」というこの内弁慶政権を諸藩や民間から失望、嘲笑され、世論はますます幕府に懐疑を抱かせる結果となっていきました。幕府としても絶えず財政が厳しかった中、当時独占していた貿易権を手放す事は政府の崩壊を意味しており、幕僚らも運任せの事なかれ主義で、ただしがみついているだけの者が大半でした。

末期(幕末)ではもはや、建て直しが困難な政権に最後までしがみつこうとする者、解体にある程度妥協しようとする者、解体に協力的な者など、特に中下級の武士の間で議論や闘争が重ねられ、また公家までも佐幕派と攘夷派で対立する事となりました。幕末の騒乱は、独自で近代化に進もうとしていた長州藩と薩摩藩が中心となって幕府解体の名目を整えていき、世論もそれに向かっていった事で諸藩を解体へ導き、長きに渡る武家社会はついに終焉を迎えます。

江戸幕府は、幕末だけに注目すれば何もかもがダメな政権であるかのように見えますが、成立当初の名目はむしろ必然であり、その役割は非常に大きく、また十分なほど果たされました。国内のいがみ合いを抑制し、支配体制の矛盾や商業への偏見がある中でも行政に本腰を入れようとしていた点では、当時としては優れた政府といってよいと思います。しかし時代はいよいよ世界情勢に向き合う必要の出てきた近代国家に向けての新たな政府が必要になり、それまでのひと通りの役割を終え、ついに用済みとなって解体した政権といえます。

しかし江戸時代は、後の自由民権運動で現れているように、士族格差を引きづった問題や、また特に永きに渡る非人制度による、あまりにも根強い人権差別問題の弊害も生み、後者は2012年現在に至っても地域によってはいまだにその痕跡を根深く残している場所もあるようです。日本に限らずこうした差別の歴史はどの国も抱えている問題であり、世界の歴史はある意味、法(権力)と差別(民権)の歴史とも言えそうです。

主な参考資料
・江戸300藩 バカ殿と名君 −八幡和郎

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